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松本薫 (柔道) : ミニ英和和英辞書
松本薫 (柔道)[まつもと かおり]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [まつ]
 【名詞】 1. (1) pine tree 2. (2) highest (of a three-tier ranking system) 
: [ほん, もと]
  1. (n,n-suf,n-t) (1) origin 2. basis 3. foundation 
: [やわら, やわ]
  1. (adj-na) poorly-built 2. weak 3. insubstantial
柔道 : [じゅうどう]
 【名詞】 1. judo 

松本薫 (柔道) : ウィキペディア日本語版
松本薫 (柔道)[まつもと かおり]

松本 薫(まつもと かおり、1987年9月11日 - )は日本の女子柔道選手。階級は57kg級。帝京大学法学部卒業、ベネシード所属。身長163cm。段位は四段。血液型はA型。組み手は右組み。得意技は袖釣込腰小外刈寝技〔「柔道全日本強化選手名鑑 2016」近代柔道 ベースボールマガジン社、2016年4月号〕。兄弟は兄と姉2人と弟がいる〔「解体新書 松本薫」近代柔道 ベースボールマガジン社、2008年12月号、102-105頁〕。愛称は「野獣」。
== 経歴 ==

=== 2007年まで ===
石川県金沢市出身。兄弟が既に柔道を始めていたこともあり、親の勧めで6歳の時に岩井柔道塾で柔道を習い始めた〔「新歓!期待の新人特集 帝大の柔ちゃん、世界目指す/帝大 <柔道部・松本薫> 日刊スポーツ 2006年4月24日〕。岩井柔道塾では週1回レスリングの練習も取り入れていた関係から、味噌蔵町小学校時代には、レスリングの全国少年少女レスリング選手権大会にも出場して、2年生の時に22kg級で2位、3年生の時には24kg級で3位、4年生の時には27kg級に出場して3位を記録している〔〔柔道金メダリストの松本薫選手は、全国少年少女レスリング選手権の出場経験者 全日本レスリング連盟 2012年8月1日〕。
兼六中学校2年の時には全国中学校柔道大会44キロ級で3位に入るも、その時1つ年上の姉である松本明子が48kg級で優勝したのに発奮して、翌年の全国中学校柔道大会では2階級上の52キロ級に出場して、優勝を果たした〔「第33回全国中学校柔道大会」近代柔道 ベースボールマガジン社、2002年10月号、34頁〕。
高校は金沢から上京して藤村女子高校に進学した。高校1年の3月に全国高校選手権の52kg級に出場するが、3回戦で埼玉栄高校三木千尋に有効を取られて敗れた。高校2年になると57kg級に階級を上げてインターハイに出場すると、決勝ではその年の世界ジュニアで優勝することになる津幡高校広村麻衣を判定(3-0)で破り優勝した〔「詳報・インターハイPart1」近代柔道 ベースボールマガジン社、2004年9月号、20頁〕。
しかし、三井住友海上と合同で練習する藤村女子高校の練習方法が肌に合わず〔松本、攻撃柔道が結実=57キロ級で日本に初の金 時事通信 2012年7月31日〕、また、東京の生活が馴染めなかったこともあり〔 スポーツで生きていこう - 大学・専門学校・各種スクール検索サイト 2012年7月1日〕、高校2年の10月には郷里の金沢学院東高校に転校することとなった。これにより、高校3年の時は全国高等学校体育連盟の規約でインターハイには出場できなかったものの、全日本ジュニアでは、決勝で大阪工大高校牧志津香横四方固で破ったのをはじめ、オール一本勝ちして優勝を果たした〔全日本女子ジュニア柔道、松本薫がオール一本で優勝 〕。さらに、ブルガリア国際に出場して準決勝でオーストリアのサブリナ・フィルツモザー腕挫十字固で敗れるが3位となった。
高校3年の夏にはドイツジュニア国際に出場して、決勝で地元ドイツの選手を破って優勝した〔。
一度上京しながら郷里に戻ってしまったこともあり、大学進学にあたっては地元の短大に進んで栄養士の資格を取得することも考えたものの、環境の整った帝京大学で柔道に取り組みたいという気持ちが上回ったことで2006年4月には同大学への進学を果たし、国会議員谷亮子を輩出したことでも有名な同大学柔道部の一員となった〔。ドイツジュニア国際では3位に終わり2連覇ならずも、全日本ジュニアの決勝では、筑波大学藤田康恵を指導1で破って2連覇を達成して世界ジュニア代表に選ばれた。世界ジュニアでは初戦でスロベニアのタイダ・ケティスと対戦して、GSに入ってから相手の頭が鼻を直撃したことにより骨折が疑われるくらいの出血となった。止血と柔道衣を取替えて試合再開となったが、再び出血したところ審判団が合議の上、治療に時間がかかるのみならず、また出血すると危険だという理由で棄権負けを言い渡した。この裁定に抗議したものの受け入れられなかった。その後は気力を振り絞って3位決定戦まで進むが、そこでハンガリーのドラ・ヘゲダスに腕挫十字固で敗れて5位に終わった〔「世界ジュニア選手権大会」近代柔道 ベースボールマガジン社、2006年12月号、53頁〕。
2007年に入ると、2月のベルギー国際では3位に入り、秋の講道館杯では決勝で牧志津香に効果を取って優勢勝ちで優勝して、シニアの全国大会での初優勝を果たした。これが評価されて嘉納杯に出場するも、3回戦でハンガリーのバツコー・ベルナデット掬投で敗れるが、3位決定戦では、この階級で長きにわたって活躍してきた元オリンピック及び世界チャンピオンであるスペインのイサベル・フェルナンデスを判定(3-0)で破って3位になった〔。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「松本薫 (柔道)」の詳細全文を読む




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